風俗版マッチングアプリが優秀すぎる件【2022年・アナログ風俗を卒業】

【作家/脚本家・丸野 裕行】ライター業の傍らには、いつも風俗店やキャバクラがあった…

賢者たちの風俗回顧録「あの頃は若かった」

アダルト業界の第一線で活躍する賢者たちが、懐旧の情に駆られながら、若かりし日の風俗体験について思う存分語りつくすこのコラム。

第三回目は、映画や出版など様々なマスメディアや一般企業の宣伝広告を手掛けながら、特殊犯罪や風俗業界などについて、幅広い著作を発表し続ける作家・丸野 裕行氏。

長年、ナイトビジネス業界でも精力的に活動してきた丸野氏に、若かりし日の風俗体験について追憶していただきました。

パチンコで勝った友人に連れていかれた雄琴ヘルスが風俗初体験。

僕が、初めて風俗店という未知の世界に飛び込んだのは、19歳の大学生の頃。

幼馴染みで、大人びていた友人がパチンコで勝ったということで「風俗行ったことないやろ? 連れて行ったるわ」とガチガチに改造した日産フェアレディZで、京都近くにある雄琴温泉へと向かった。

当時から職人として羽振りのよかった友人におんぶにだっこだったわけだ。

2001年、大学生だった僕は、当時付き合っていた彼女と同棲していて、遊びに行くヒマもなく、バイトに明け暮れていた。学業なんて二の次、とにかく大人に憧れていた。

当時は、京都府の条例などもなく、僕が映画化した『木屋町DARUMA』の舞台になっている木屋町では、まともな風俗店や闇風俗店が幅を利かせ、呼び込みが街を闊歩していた。

会社員が刺殺されたり、すぐに喧嘩騒ぎが起こったりと、にぎやかな街だったわけだ。

それでも異彩を放っていたのは、やはり滋賀県にある雄琴温泉。
当時は、男たちの欲望をすべて飲み込むための十数軒のソープランドが立ち並び、煌びやかなネオンサインが夜遅くまで灯っていたことを覚えている。

車でソープ街に飛び込むと、派手な袢纏を羽織った男性従業員たちが、自分の店に呼び込もうと、前に進ませてはくれない。立ちはだかって進路を塞ごうとするのだ。

そんなボーイたちを、友人が慣れた調子で「もう、店決まってんねん、悪いな、兄ちゃん」とあしらう。幼馴染みの大人の貫禄に、僕は舌を巻いた。

入ったのは、今でもはっきりと覚えている、『ブティックべっぴん』。沖縄の子が多く在籍する、このソープ街には珍しい花びら三回転のヘルス店だった。

入店し、待合室でコミック誌を読みながら、順番を待つ。このときの記憶も鮮明で、サラリーマンや学生と思しき若者たちが花びらへの列をなしていた。平日なのに満席で、風俗店の魅力に圧倒されたのだ。

プレイルームに入ると、三つ指をついて客を待つ10代後半と思しき女の子。顔立ちがハッキリとしていて、南国出身者だということがよくわかる。

服を脱がされ、突然の速尺。正直言って面食らった。

沖縄訛りの言葉で、シックスナインをせがんでくる彼女。初の風俗体験は初っ端からかなり刺激的だった。このときに全身にローションを垂らされ、塗りつけられて、一度目の昇天。

そして、二人目がやってきた。彼女の顔も彫りが深く、沖縄のそれとわかる。ソファーに座らされてのシックスナイン。しかし、一度目からの連続ではさすがにイクことはできない。

それから、最後の三人目。彼女の顔はあまり見てはなかったので、覚えてはいない。今度はベッドでしっかりと射精した。

僕の方が早かったのか、店外で友人を待ち、帰りにラーメン屋に寄って、店の中での体験話をした。とにかく衝撃的だった、オレはあの店にいつも通えるように頑張る、とそんな話をしていたような記憶がある。

当時で、一万五千円ほどだった料金も、その頃は捻出することは難しい。
よし、物書きになって、遊ぶ金を稼ぐぞ……もう作家を目指していたために何の根拠もない自信を幼馴染みにぶつけていたことを覚えている。

バブルの余波とライターデビュー、素人化していく風俗嬢。

だが、バブル崩壊で風俗業界も下火になり、雄琴のソープ街にも活気がなくなりはじめた。
失われた十年の中で、就職や職探しすらできない僕たち。

そんな経済低迷の中で風俗の女の子自体が素人化していく。
その頃のピンサロは逆にチャンスがいっぱい転がっていた。

悪友とピンサロに繰り出しては、昨日今日入店したばかりのピンサロ嬢をナンパして、店外に連れ出すことが多くなった。

22歳の頃には、アルバイトでボーイとして入店したこともあった。連日先輩たちに飲みにつれていかれた。それほど派手な世界に憧れていたのである。

それから子供ができ結婚。一旦は、風俗遊びとは疎遠になってしまう。

この頃あたりから、僕は小説賞にひっかかり、文章修業を経て、フリーライターの道を歩みだした。

主な連載先は『裏モノJAPAN』(鉄人社刊)。
裏社会ネタやヤクザネタ、風俗ネタなどを拾い集めているうちに、だんだんとそちらの方面とのご縁が強まってくる。
仕事を突き詰めていくうちに、家族のことを顧みずに、瞬く間に離婚。

当時は、無店舗営業のマンヘル(マンションヘルス)全盛で、体験取材をしたり、きわどいプレイが行える店の情報をネタ元から掴んだり、原稿を書いたりとかなり楽しかった。連載も増えていき、常にネタ探しに目を光らせる。

時代は、ソフトサービス店へ。

しかし、少しずつ感じていたのは、やはり大阪府や京都府の条例の厳罰化。
2008年のリーマンショック以降はさらに景気が落ち込んだ。

街に数多く点在していたピンサロがどんどんと減っていく。
さらにセクキャバやパンチラパブ、洗体エステなど過激なサービスを行う店が、二、三度通ったあとには必ず一斉摘発を喰らうようになりはじめた。特に無許可営業の店は何度店名を変えようが、徹底的に叩かれる。

逆転して増えていったのが、ソフトサービスを売りにする店である。手コキやおっパブなどが増え、ヌキがなくても満足できる草食系の男子が誕生しはじめたわけである。

この時期になると、実入りの少ないフリーライターとして独立することへの不安を感じ、結局コピーライターとしてサラリーマンをはじめるわけなのだ。これが、2012年のことだ。

風俗業界も冷え込み、求人を出しても人が集まらない

当時の風俗業界の冷え込み方といえば、それはそれは極寒。
店舗型のヘルス店も続々潰れ、ピンクサロンは風前の灯火、ソープランドには閑古鳥が鳴いている。
風俗情報誌すらも、乳首を出すことを辞めはじめる始末だった。

そのうちに、無店舗のデリヘル、ホテヘル、メンズエステがメインになり、風俗業界もネットでの情報発信が主流となるにつれ、僕自身が風俗記事を書く機会がなくなっていった。

夜の街に出向いて、あまり清潔とはいえない店内で女の子と遊ぶというところに愛着を感じていた僕は、綺麗なホテルへ女の子を派遣してくれるデリヘルという新たな業態には馴染めなかった。

かつて、栄華を極めたギラギラとした風俗業界が、今は過去の性の遺産になってしまっている。
それは、数年前に風俗店にボーイとして潜入取材をした際に、ひしひしと感じた。

 

スマートに接客を行う店舗のスタッフたちには、かつてのような押しつけがましいギラギラ感はない。
そこで働く女の子たちもかつてのようなプロ意識はなく、カジュアルで背徳感があまり感じられない。
それが、今の風俗業界の主流だということは良く分かってはいるが、かつての勢いを経験した身としては、若干寂しくも感じる。

今はお手軽なネット予約の店が数多く乱立している。
それはそれで、風俗遊びが身近に感じられるので良いことかもしれない。

しかし、店の内側から眺めていた呼び込み同士が、怒声をあげて喧嘩し、風俗店の重役がバブル期のヤクザのように札ビラを切り、月に一回の表彰式でナンバーワンを競う風俗嬢たちがいたあの時代が懐かしい。

また、あのように風俗業界が息を吹き返す時代はくるのだろうか。

丸野 裕行
作家・脚本家、映画プロデューサー、特殊犯罪アナリスト、株式会社オトコノアジト代表取締役
京都府出身。
様々な雑誌書籍に寄稿後、発禁の著書『木屋町DARUMA』を遠藤憲一主演で映画化。ガジェット通信連載、初めての不動産投資マガジン編集長、裏ネタJournal主宰、コメンテーターとして『ワイドスクランブル』など数々のテレビ番組に出演。

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